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ワイズ・ワード − 過去の英雄たち

原文
Wise Words - Yesterday's Heroes
著者
Gary Wise
訳者
タイ屋
投稿日
2002-11-28
更新
2003-06-29

今日、オレは悲しい。

オレは幸せであるべきだったのに。

オレはすでに自分のためにトロントの近郊で素晴らしいちょっとした住居を手に入れていたし、ヒューストンでは素晴らしいちょっとした週末を過ごしたし、イングランドにいた間は諦めなくてはならなかった自分の車とケーブルモデムとケーブルテレビまで手に入れている。人生における(そういう)細々したことの多くが、現在はオレの好みに動いていた。それだけ聞けば、(当然)オレが(自分の境遇に)感謝していると思うだろう。

今日、オレは今までで一番憂鬱なドライブをした。オレがイングランドに行く前は10ドルで散髪してくれてたちょっとした床屋に行ったら、今回は散髪するのに毛が生えただけのことに、23ドル取られた。オレが、そこには行くことはもうないだろう。オレは立ち去るときに、放送できないような文句を小声で言った。それから、いつものように南に行くかわりに、北へと車を飛ばした。オレは、シューボックス・ヒーローズ(Shoebox Heroes)を訪ねようと思ったんだ。

オレがマジックを教えられたのは、今までにもしばしば言及している友人、ショーン・アルトバウム(Shawn Altbaum)からで、1995年の春休みに、学校から家に戻る途中のことだった。彼が、オレにゲームを教えた。オレがはじめて買ったカードは、コートに入れていたら盗まれちまった。学校に戻ったオレは、二度とゲームをしないだろうと思っていた。

もちろん、オレは何人かが寮でプレイするのを目にしてしまった。彼らとプレイするために席について、そして残りはみんなの予想通りに展開した。何ヶ月か後になって、学校が終わってオレがトロントに戻ると、ショーンにカオス・オーブが何をするかを教育してしまった。(当然ながら)彼はさっさと負けてしまうのがイヤになったので、オレはゲームをするために新しい場所を探す羽目になった。

オレは職業別電話帳の「コレクタブル」のページに目を通した。そして、(そこに出ていた)少数の店に電話して、マジックを売っているのか、あるいはもっとよくて、オレがプレイできる場所を知ってるんじゃないかと質問した。大部分は、オレが話したことには何の手がかりも持ってなかった。

シューボックス・ヒーローが答えてくれた。

そこは2人兄弟のマークとミッチの店だった。マークが兄貴で、ビジネスマンだった。ミッチは、おっちょこちょいなスケートボード乗りで、どこかのチームのメンバーだった。店はゲームのための8人で使えるテーブルが一つあって、フィギュアとコミックとRPGとマジックを扱っていた。天国だった。

毎日、オレは堅苦しい白い内装の、この店に通った。

「ゲーリー、仕事を探しに行くんだ」と両親はオレを強くたしなめていた。「大丈夫」とオレは言っていた。自分の車を飛ばして、シューボックスへ行っていた。(皮肉なことだが、オレが仕事を見つけたのはそこだったような気がする。・・・それが意図的なものじゃなかったことは保証していいが)

毎日、オレは少数の他の常連と一緒になって、常連やたまに来る人間や、マークやミッチや他の誰とでも、遊んだり、トレードしたりして、実に楽しい時間を過ごした。

オレはゲーム中毒になっていた。:プロツアーは、まだなかった。賞金の手に入るアテなんてなかったわけだ。ただ、ゲームだけがあった。

オレがトロントから離れていた時間のせいで、それらの人々と場所と物事に対して、郷愁的な気分になっていたんだと思う。自分が若かった時代には、それが当然だと思っていたものに対して。それが、今日、オレがいつものように南に行くかわりに、北に行った理由だった。

オレはその古い馴染みの場所の現状を知りたくなった。郊外にあって家からは離れていたが、家にいるように暖かみと居心地のよさを提供してくれていた場所。オレが、プレイするためのより多くの部屋とより多くのプレイヤーを有していた(そして、暖かみや居心地の良さは欠いていた)別の場所のために、諦めてしまったその場所を。

オレはその店に入って、マークと仲良くおしゃべりして、彼が私を送り出してからの年月に起こったすべてのことについて話して聞かせて、彼と彼の心からの好意的な態度がオレの人生に与えた効果について、ちょっとばかりほのめかしたかった。

オレが以前に通ってから、ずいぶん長い時間が流れていた。店の近くの直線道路を通っていると、見覚えのない新しい住宅地が突然現れ、商店は前に見たときと違っていた。最終的に、何個かの間違った標識の後で、オレはガソリンスタンドを見つけた。あまりにも慣れ親しんだ駐車場へ行くとき、目印にしていたところだ。それはまだそこにあった。オレはエンジンを吹かして、そしてちょっと速すぎるスピードでよく通った地区に入って、古なじみの駐車場所までドライブして、そして車を降りた。

ハ・ラルの東アジアの食料品店のすぐ前。

シューボックス・ヒーローズはなくなっていた。

過ぎ去りし日々の思い出は残っている。アイス・エイジのシールド戦のためにパックを開けたら、コモンが入っているべき場所にアンコモンが入っていたこと。だましたことと、だまされたこと。165センチの体よりもずっと大物だったライアン・ユアン(Ryan Yuen)という男が、「ここはオレらのテーブルだぜ。ここで君は、敗北をプレゼントされるという特権があると思うだろう」と自信満々で言うような態度とともに、とても若かったギャブ・ツァンを含む陽気な男たちの一団とときどき店にやってきたこと。

資本主義と競争との結合がレッカーボール(建築解体用の鉄球)となり、オレの幼年期の故郷だったシューボックス・ヒーローズを取り壊してしまった。残っているものは、その思い出のかけらだけだ。

オレたちは皆、自分たちのシューボックス・ヒーローズを持っている。それらはゲームの旅路における記念碑であり、オレたちが最終的に選択した道へと送り出してくれた存在なんだ。

先週、シカゴの出場資格を得るためのほとんど最後のチャンスとなる、ヒューストンの日曜のPTQで勝つ前に、始まりの時からからいる男、デイヴ・プライスがオレに言った。もしシカゴの出場資格を得られなければ辞める、と。ヒューストンでの勝利によって、デイヴの旅路は続いている。

しかし、誰もがそうするわけではない。以下に続くのは、プロツアーでの長い冒険を終えたけれども、その業績でゲームを素晴らしいものにしたが故に記憶されているべき、10人の名前への考察だ。これらの男たちが、発明したものや説明したことや、あるいは実例によって、オレたちがどのようにプレイするのかを教えてくれた。彼らなしでは、今日のプロツアーは違ったものになっていただろう:

1) マーク・ジャスティス(Mark Justice)

発明したもの:プロ。

ジャスティスは、1996年の世界選手権の決勝で、大胆にも2回《Demonic Consultation(IA)》を使ったためにゲームに負けたことでよく知られている。

わかりやすく言うと、マーク・ジャスティスというのは、90年代中期におけるカイ・ブッディだった。彼のキャリアが終わった後で、マークは自分の不完全さをいくらかは認めた。プロツアーが始まった時代においては、彼はコミュニティの他の誰よりもゲームの理解において優れていたという単純な理由によって、世界で最高のプレイヤーだと広く一般的に認められていた。

ジャスティスが正真正銘の大きな世界規模のトーナメントには勝ってないことで、理論上は彼を真に偉大な存在として認めないということもあり得るかもしれない。しかし、当時そこにいた人たちは、彼の名はフィンケルやブッディと同じように伝えられるべきだと言うだろう。彼はプロツアー・パリと1997年の世界選手権で2位になった。かつての合衆国選手権で勝った。そのことで、フルタイムのマジックプレイヤーという概念を、冗談から現実のものへと変えた。彼はまたすべてのプロプレイヤーを労働組合に加入させようとして、そして同時にそのうちの何人かの代理人になろうとしていた。この利害の衝突が、彼に不利に働いた。その一方で、マークは単に自分の賞金を受け取るだけだ、などと批判されたことは決してなかった。彼は、ゲームに手を貸すことが、それをより大きなものへと導くだろうと理解していた。そして、そうなったのだ。

2) ブライアン・ワイズマン(Brian Weissman)

発明したもの:カード・アドバンテージ

ワイズマンはカード・アドバンテージの父だ。彼がその概念を生み出したわけではなかったが、彼は最初からそれを理解してた。常に《Mind Twist/精神錯乱(4E)》、《Chaos Orb(UN)》、《Balance/天秤(4E)》とか《Library of Alexandria(AN)》のようなカードを好んでいた。

今日から思い返せば、そんなことは当たり前だと考えるかもしれない。だが、(彼がそうしていた)プロツアーが軌道に乗る前の時代とは、まだ、《Juzam Djinn(AN)》はアップキープ毎のダメージが痛すぎるから駄目なカードだ、などと認識されていたような時代だったのだ。

(カードアドバンテージと同様に)ワイズマンは、彼がそのために有名になった、あの白青赤のコントロールデッキ、「The Deck」を作ったわけでもなかった。そう、本当の創造者は彼の長年のパートナー、John Immordinoだった。しかしブライアンは、そのコンセプトをニュース・グループへの投稿を通して大衆へと普及させて、人々のゲームの見方を永久に変化させ、そしてその過程で彼は伝説となった。

ワイズマンは、まだ時折、カリフォルニアのプロツアーにやってきて、あたりをぶらついている。

3) DKLA (ジョン・ユー、トリック・ビュイ、ブライアンハッカー、ジェイソン・ジーラ)(John Yoo, Truc Bui, Brian Hacker, Jason Zila)

発明したもの:ビートダウン

元来はそれほど適切ではない名前(※チーム・ヒットメン)で知られていたDKLAは、ジャスティスが代理人としての活動を始めたときに、それを受け入れた。

これらの4人のカリフォルニア人は、後になって彼らのノリに加わったギャブ・ツァン(Gab Tsang)、イゴール・フレイマン(Igor Frayman)、ガーベ・ハイガ(Gabe Higa)、シグルト・エスカラント(Sigurd Eskeland)のような連中とともに、テーブルについて、ゲームを楽しむこと何でもを持ち込んだ。同時に、マジックについて、単にカードアドバンテージによって対戦相手をコントロールする以上のことを理解していた。

こいつらはビートダウンした。激しく。もしマナコストが1より大きなものなら、ビュイはたぶんそれをプレイしないだろうし、他の連中もそれから遠からずといったところだった。ワイズマンのように、DKLAはニュースグループ上で非常にアクティブだった。求められているか否かにかかわらず、カードからプレイヤーまでの何にでもについて、意見を言っていた。

そして、ドラフトと、ドラフトをどのようにやるかということを世界に教えた。15枚のクリーチャー。17枚の土地。8枚の呪文。それがどう働くかを知っていた男たちだった。

ブライアン・ハッカーは、まだ、時々はプレイするために現れることがある。もし彼がそうしていて、あなたが40枚のカードのデッキが好きなのであれば、確かに彼に感謝するべきだろう。

4) ハマー(Hammer)

発明したもの:トラッシュ・トーク

オーケー。ハマーはマジックのゲームに、トラッシュ・トークを導入したってわけではない。彼がそれをはじめて使ったというわけじゃない。もちろん、最後ってわけでもないが。しかし、彼は最高で・・・そう、彼に対しては議論するというのは難しい。

彼は最初のプロツアーでトップ8に入り、そして2回目では優勝した。ハマー、いわゆるショーン・レグナーは、元プロのアーム・レスラーであり、プロの闘技場を知っている人間として、非常に多くの古手のプレイヤーたちに、(そのトラッシュ・トークで)火の洗礼を与えた人間だった。

ハマーのトラッシュ・トークは、1996年のプロツアー・ロサンゼルス(2回目のプロツアー)の決勝戦のプレイ中に、彼のゲームがその活発すぎる口のために悪い状態になってしまった後でさえ、あまりにも凄まじかったために、トム・ゲヴィンが吐いてしまったとの噂まである(ゲヴィンは事実ではないと否定している)。60センチのニシキヘビが、いい加減に扱っていい相手ではないと理解したにもかかわらず。

ハマーが最後に現れたのは、1年半前のバルセロナだった。

5) ジョージ・バクスター(George Baxter)

発明したもの:マスメディア

早期の偉人の一人、バクスターは、1997年の合衆国代表チームのメンバーであり、そのメンバー(バクスター、マイク・ロング、マット・プレイスとチャンピオンのデニス・ベントレー)の中でのベストだと多くの人間から認められていた。

彼は(今まで)およそ5年間引退していた。2001年、彼は新婚旅行でトロントに来ていた。世界選手権の間、街を歩いていたときに、オレは彼にばったり出会った。それでオレは彼に何が起きているかを知らせて、彼と当惑している彼の妻とを引っ張って連れていった。彼はそこで、往年のトーナメントについての話でオレたちを楽しませてくれた。

バクスターは、彼のプレイによって、このゲームで記憶されているというわけではない。その代わりに、彼は、ゲームの早い時期に書いた本のために記憶されているだろう。成長途上のプレイヤーと、何でも持っているゲーマーのためのクリスマスプレゼントを探している両親のための主要目的物となったその本は、ゲームプレイとデッキ構築の基礎条件を世界へと教えたのだ。

今や月日は流れて、バクスターの本はほとんど姿を消した。しかし、それはかつてのゲームへの十分な理解と、このゲームで勝つために必要なことへのわれわれの見方が、何年もかけてどう変化したのかということを理解する機会を与えてくれる。

6) マット・プレイス(Matt Place)

発明したもの:ルール解釈

もちろん、プレイスがこんなものを発明したわけではない。PCL と Tongo は原初からそれをやっていた。しかし、マットは、彼は名人だった。

中西部からやってきた新進の若造だったプレイスは、プロツアーが起こる前のその地域でのトーナメントシーンに君臨していたプロツアーがついにやってきたときに、この男はわずか3回の練習ドラフトを行っただけだったにもかかわらず、マインツで優勝して、彼の持っていた才能を証明した。

彼はルールの穴を発見した。ドローのあとで対戦相手にライトニングボルトを使えるか質問して、イエスと言わせることで、相手のメインフェイズを終わらせる(事実上何もさせずにターンを終わらせられる)ことを。もちろん、これらの問題は可能な限り速くルール・グルたちによって解決されたが、それらは記録に残った。

7) アラン・カマー (Alan Comer)

発明したもの:プロツアーで楽しむこと

ショックや落胆を感じるだろうか? オレがこのようなことをあえて話しているために? プロツアーとそこでのプレイヤーというのは、冷酷で、カジュアルな目でも振る舞いを計算して、ゲームの楽しみとして解釈されるような何物にも価値を認めない、と思われている。アラン・カマーの6年間のキャリアは、そんな理論に対するアンチテーゼだと分かる。

彼が最近になって、ウィザーズでマジック・オンラインで働くために辞めるまで、アランは彼自身のタイトルを手に入れることには成功しなかったが、その一方で彼は5回日曜日に進んだ。

まだ現役だったころのカマーの得意は、型破りなデッキを構築することだった。オレは、スコット・ジョーンズとシグルト・エスカラントと一緒に、ローマでHigh Tide(MoMa)とサバイバルとオースをテストしていたときに、アランが隅の方で4枚の《悟りの教示者/Enlightened Tutor》と、各主要アーキタイプそれぞれを強烈にメタったエンチャントを1枚ずつ入れた白ウィニーを組んでいたことを今でも覚えている。彼はそのデッキをプレイして、一日目は6−1だった。

アランが創造したものには、ゴジラとターボ・ゼロックスも含まれている。彼は自身に相応しいデッキとしてミラクス・グロウを有名にした。一方で、ゲームのテーブルで彼に会ったときはいつでも、大きなスマイルを浮かべてそこにいるだろう。

カマーは、楽しみながら、ナイス・ガイでありながら、ツアーにおいて成功できるということを世界に対して証明した。それは(そのために)記憶されておくべきかなり素敵なことだ。

8) ヤコブ・スレマー(Jakub Slemr)

発明したもの:ヨーロッパの力

もう一人のゲームを大いに楽しんだ男、ヤコブ・スレマーは、初期の頃からいた。そう、他の非アメリカ人、オーレ・ラーデやフランク・アドラー(PTアトランタチャンピオン)は(すでに)ビッグ・タイトルをつかみ取っていた。

しかし、ヤコブが世界選手権で優勝したとき、それはアメリカ人たちに、世界中から競争がやってきていることを告げて、彼らの目覚めを促すものとなった。

ヤコブは本当は(その)名誉を共有せねばならないが。1997年のトップ8は多様性が浸透していた。決勝でスレマーがドイツ人のヤノッシュ・クーンを破り、デンマークのスヴェン・ジーセンとカナダのポール・マカベがトップ4に入っているという状態だった。

スレマーは昨年、仕事のために辞めたが、その前にもう2回トップ8入りを果たした。

9) PCL(パシフィック・コースト・レジェンズ:マーク・ジャスティス、マーク・チャリス、ヘンリー・スターン、マリオ・ロビーナ、プレストン・ポルター、スコット・ジョーンズ、フランク・ギルソン、他多数)。(Pacific Coast Legends: Mark Justice, Mark Chalice, Henry Stern, Mario Robaina, Preston Poulter, Scott Johns, Frank Gilson, cast of thousands)

発明されたもの − チーム

YMGとジャンブルとゴジラとモグスクワッドとデッドガイとパニッシャーと、その他残り全部が出現するよりも前に、PCLがあった。

プロツアー時代の最初の本当に偉大なチームであるPCLは、初期は、メインイベントとサイドイベントの両方で君臨していた。彼らは数の力の重要性を他の誰よりも先に理解していた。そして、現在から予測可能な未来にわたって続くであろう、プロツアーでの最高のチームの例を提供した。

PCLはジャスティスとポルターを(最初の)プロツアー・ニューヨークのトップ8に送り込み、最初の年に、彼らの支配を明らかにした。ジョーンズは連続3度のトップ8入りを果たした。チャリスは彼自身で1度。ジャスティスとスターンは1996年の世界選手権でトップ8入り・・・彼らは力を象徴していた。

結局は、スターンは WotCに移り、ジャスティスは西海岸を去った。そしてこのチームは様々な理由のために離ればなれになった。しかし、彼らの残したものは、ツアーに残されている。賢いゲーマーが単独でプレイするなどということは二度と起こらないだろう。

10) Frank Kusomoto(フランク・クスモト)

発明したもの:インターネットの使用

彼自身はプロプレーヤーではなかったが、フランク・クスモトはこのリストに載っている中で最も重要な発明をしたかもしれない。税関職員(naval officer)でマジックの熱狂者だったフランクは、ハッカーやワイズマンのような人からのニュースグループでの投稿におけるゲームの理知的なものへの動きに注目して、彼のウェブサイト、www.thedojo.comで、よく考えられていた投稿を集めて整理し始めた。ちょっとした趣味として始まったものは、話が広がるにつれて、ますます多くの情報に飢えたゲーマーたちが集まり始めたことで、その男の大半の時間を費やすようになった。

在りし日のドージョーは、完全な驚異そのものだった。競争がないことで、ライターの「需要と供給」は無意味なものだった。マジックの福音を広めて、彼らのゲームでの経験を共有するというためだけに、多くの人々が自らの時間を差し出した。(※ライターに原稿料を支払う必要がなかった、という意味だと思います)このリストに載っている名前の大部分は、(少なくとも)一度や二度はそれに加わったことがあった。それらの作品がネット上に保存されているのを、まだ見ることができる。

最終的に、競争相手が突然生じたとき、ドージョーはロブ・ハーンやマイク・フロレスのような人がその崩壊を免れるために最善を尽くしたことで、なんとか競争力を保とうとしていた。しかし、時代は変わり、ゲームにより多くの金が流れ込んできて、ドージョーは取り残された。ドージョーがすでに仕事になっていたフランクは打ちのめされて、結局はドージョーを売却して、そしてゲームから足を洗った。

彼は、有名サイト、たとえばStar CityやBrainburstやGrimmoireやMisetingsやあるいはTeam Academyでさえもが、今日のマジック界において重要な地位を占めていることの理由なのだ。

まあそんなところだ。

このリストは、デイブ・プライス、つまりビートダウンのなんたるかを世界に教えた男について考えたことによって、部分的な着想を得たものだ。だが、彼が活動しつづけていることで、このリストに載せることはできない。

デイブ、オレは君がシカゴの出場資格を得たことがうれしい、それに行かなくてはならないと思う。ツアーは、君のいない状態では、何かが違っているだろう。

良い週を。

出典:
http://www.wizards.com/default.asp?x=sideboard/ww/20021128
原題:
Wise Words - Yesterday's Heroes
原著:
Gary Wise
翻訳:
タイ屋

遅くなったけれども、翻訳は月曜の夜には終わってた。残りの時間は病気で寝てた。ハマーの話に出てくる24インチパイソンってさすがに意味分からない。たぶん「腕力」ぐらいの意味になりそうなんだけど、気力が足りないのでダウン。

naval officer:知ってる人は知っている困った単語。海軍士官と税関吏という二つの意味があって、判別のしようがない。以前はどっちだったか知っていた気がするが、思い出せなかった。

店が無くなってたってのは、自分も通ってた学校が取り壊されて更地になってた所見たことがあるので、ある程度共感できた。

しかし、ワイズは本当に難しい。文体不統一の原因もそういうことで。きっとにらっちの前世は、ゲリー・ワイズなんだと思う。

当ページは、2ちゃんねる卓上ゲーム板「MTG Sideboard Online 日本語版」スレッドに投稿された記事を、426(braingeyser-lj@infoseek.jp)がまとめたものです。